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2011年4月30日 (土)

04300115年ぶりくらいに会った友人と、3年ぶりくらいに写真で見た別の友人の顔と。

よく、顔にはその人の今までが現れるとか言うし、顔つきが変わるとか、老けるとか色々あるけれど、この2人はとにかく驚きというか不思議というか。

こういうケースもあり得るのかなぁとなんだかとても妙な気持ちになった。

特に10数年ぶりに会う友人などはそれなりに老けるだろうし、太るやせるなどで見た目もずいぶん違うだろう。

でもなにかそういう路線ではなくて、根本的に「もともと違う顔」だったのではないかと思わせるような。

顔というのはある程度老けたらこうなるだろうなとか、若い頃はこうだっただろうなとか感じられるものだと思うが、そういうのが全くなかったというか。

丸顔の人が面長になっていたとか、濃い顔がすごく薄くなっていたとか、その全てが一緒にやってきたというような。

それこそ「まるで別人」

で、そういうのはどういう「人生経緯」でそうなるのだろうかと考えてしまった。

苦労したとか幸せに暮らしてきたとか、そういう変化ではなくそもそも骨格から変わっているというかパーツが別物というか。

もちろん、整形とかそういう意味でもなく。

話をしてみても以前のままだし、本人だし。

考えてみたが理由が分からず不思議な感覚のまま。

 

ところで、「カオナシ」は、立派に顔があるな。

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2011年4月29日 (金)

揺るがぬ本質

042901時として、わが国の首相はブレないと感心することがある。

今度は「東北道無料化」が検討されているという。

この首相の基本はどれだけお金を使うかに集約されるように思う。

子供手当てしかり、高速無料化しかり、なんでもお金を撒くことしか頭にないようだ。

民主党全体で言えば「地域で子供を育てる」とか「愛のある」とか基本「政府が国を運営する」というスタンスよりも「政府が国民に何をくれるか」というスタンスのように思う。

もちろん、子供手当てであれ、高速無料化であれ、東北道無料化であれ、なんでも賛否両論あるだろうし、その余裕があるならば誰も反対しないだろう。

問題は「出来るのか」ということであり、言い方を変えれば「財源があるのか」ということであり。

レトリックとしてはなかなか優秀かなとも思うが、例えば「子供手当てをやる」と言われたことに反対すれば、「社会で子供を育てることに反対された」と反論できる。

反対した者に尋ねれば「財源がないから反対」ということであっても、以降「苦しんでいる子達を放っておけと言う非情な政党」と批判を続ける。

なるほど。

実現可能か不可能かは別問題とし「こんなことをやりたい」と掲げるのは戦術としては有利なのかもしれない。

ただし、大振りの後の反動は相当きつく、「次期」は苦しみあえぐだろうが。

そして、「こんなこともやってあげますよ、あんなこともやってあげますよ」一辺倒だった政党は「財源はあるのか」との追求に20兆30兆なんてすぐに出てくると繰り返し豪語していたが、その「発掘手段」として導入された「事業仕分け」も腑抜けで終わる。

そして財源なき政策を掲げてやりたい放題だった事が露呈してきていたときに起きた不幸な大震災。

ここでのお決まり文句は「政府は東北を全面的に支援する」とまた配る話。

配るのは大事。

しかし見誤ってはいけないのは、手腕は「配ること」ではなく「配れるようにすること」だと。

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2011年4月28日 (木)

能あるタカはチャレンジ精神を隠す

042801天敵とも言える堀江氏が収監される見込みとなり、国民新党の亀井議員は「チャレンジ精神を失わないように」と述べたようだ。

「間違いを謙虚に反省し」とのこと。

堀江氏の一件に関しては正確な情報を把握していないので分からないが、法の構造としてそもそも裁判で有罪になったから罪を犯した無罪になったから犯していないというものではないという根本に気づいていないのだろうか。

堀江氏に対するコメントが正しいかどうかは別にして、いかにも「日本をぶち壊してきた世代」らしい発言だと思う。

堀江氏が檻の中でもっとも反省すべき事と言えば、事業で成功しそうになったら収益の大きな部分は政治献金しなければ生きていけないのにそれを怠ったということだと私は思う。

収監されてチャレンジ精神を失うような人ではないと思うが、本人を含め他のチャレンジ精神を持つ若者たちは、その精神を発揮するのは今ではないと悟ったと思う。

こんな成長の漬物石のような世代がいなくなってから…そう思っているだろう。

もしくは国外。

さておき、今回の事件、税金関係はどうなっていたのだろうか。

有罪となった一つの項目に、ライブドア実質支配していた投資組合が行った株式交換を利用した企業買収で、投資事業組合が自社株(ライブドア株)を入手、それを売却して得た利益をライブドアの収益としていたことが「粉飾」とされたこと。

雑に言えば、堀江氏側が「これは収益」と判断したものを、「お金を動かしただけで収益ではないから粉飾じゃないか!」というのが法判断。

ということはこれは収益ではないということなのだから、その分に関しては課税されていないのだろうか。

いやきっと単純ストレートに課税されているのではないだろうか。

なんだか妙だ。

税法上は「存在」して課税され、「他の法律」上は「無かった」ことになるとしたら。

矛盾だらけだ。

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2011年4月27日 (水)

政府が責任を持って…

042701全漁連が政府に要望書を提出。

全農や自治体、一般被災者なども同じように要望や陳情をしている。

当然だと思うが、政府の反応には少し違和感がある。

「政府が責任を持って…」

確かにそうなのかもしれないけれど、なんだか妙だ。

今回の陳情は「安全基準を設けて」というものなので「政府が責任を持って」ということでストレートなのだけれど、「賠償せよ」的な話のときは「政府が責任を持って」というのはおかしい。

国賠の負担はあくまでも「国民」だ。

つまり国民が賠償するわけで、政府としては痛くもかゆくもないわけで。

他のことも同じ。

例えば子供手当てをはじめとする各種「お金あげます」論でも、負担するのは国民で政府が負担するわけではない。

あくまでも「政府が配る仕組みをつくる」程度の話で、手続きをする窓口担当程度の話。

なにも「改善に活躍したヒーロー」でもなんでもない。

ましてや、政治家が負担して私財を投げ打っているわけでもない。

感謝するほうも政府にお礼を述べるのではなく、国民に述べてもらいたいもの。

政府は国民の代表、国民が選んだという理論ならば、国民が「解散してほしい」とか「交代してほしい」と願ったときはそうすべきだけど、そんな決断は首相にしか出来ないわけで。

これが根本的に政治家の誤解、もしくは中央と地方の誤解を生んでいるように思う。

いかなるお金であっても、それは国民からの支出であって、政治家でも中央でもよいが「彼らのもの」ではないわけで。

なんだか妙だ。

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2011年4月26日 (火)

冬眠のススメ

042601ホリエモンこと堀江氏の上告が最高裁で棄却され実刑が確定することになった。

異議申し立てが出来るそうなので厳密にはこの段階で「確定」とは言えないようだけれど。

この事件を調べれば調べるほどよく分からなくなるのだけれど、ようは「法解釈」「見解の相違」みたいなものか。

いずれにしても実刑なので前科がつくことになり、今後の活動も色々制限が出てくるのだろう。

昔、高校の先生が「裁判で有罪になったからと言って被告が実際に罪を犯したかどうかは分からないし、無罪になったからと言って罪を犯していないかどうかも分からない」と言っていたのが印象的に残っているが、いずれにしても前科がつくかどうかとか、さらし者になるかどうかとか、槍玉にあがるかどうかとか、その差はとても大きく、同氏が言うように若者や能力のあるものがどんどん潜っていく、もしくは頑張らない一因にはなるのだろうと思う。

大きく儲けてはいけない、テレビやメディアに出てはいけない。

そんなことが若い経営者の間では言われ、起業してある程度成功すれば一定の株式だけ保有して他へ売り渡してしまうようなことが散見されるのもこういうことが一つ原因しているのかもしれない。

ということは必然的に再編などが進み「創業○十年」というような老舗や大御所は出てきにくくなるだろう。

一つは「会社を守る」的な感覚も薄くなり、窮地を踏ん張りぬくということもモチベーション的に難しくなってくるかもしれない。

すると、「倒産」という最大の武器が台頭してくるので、「借金の棒引き」という強烈な飛び道具で経済縮小要因も増えてくるかもしれない。

一方、同氏のような人が収監されればどうなるかと考えてみた。

10年20年というスパンだと何か悟りの境地にでも達してしまうかもしれないが、2年数ヶ月というレベルであればもしかしたらエネルギーや知識の「充電期間」としては最適なのかもしれない。

本人もtwitterなどでは「勉強の機会」とつぶやいているようだし。

それは宇宙ビジネスなのかもしれないが、チャージが済んで出てきたときにはまた一回り強力になっているのかもしれない。

なるほど、今のこの万力のような閉鎖社会、しばらく「冬眠」するのは一つの賢い選択かもしれない。

万力が引退していった頃にのそっと出てきて、より「無駄な労力」を少なく事を成し遂げられるのかもしれない。

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2011年4月25日 (月)

落日の空気を読む

042501ある会話から「空気」「場の空気」「空気を読む」という話になった。

少し前には「KY」という言葉も流行ったが、この「空気」という言葉は日本文化なのだろうかと疑問を持った。

雰囲気とかそんな概念は海外でもあるだろうから決して珍しいことでもないように感じつつ、日本のそれはある種異様な気もする。

というのも、妙にあっちでもこっちでも「空気を読む」のに必死すぎるように思えるから。

そこで何気なく調べてみたらウィキペディアにも「場の空気」という項目があったので驚いた。

これを体裁というのか協調性というのか社会性というのかなんなのか分からないが、確かに一時期はこの「能力」が日本社会の成長に寄与したことは認められると思う。

しかし現代においてはどうだろうか。

ネットが浸透しあらゆる意味で「情報」が凶器にも武器にもなる時代に突入して、「異種」であることには相当な勇気がいる。

必然的に「空気を読む能力」は年齢が若くなるに従い高くなっている傾向を感じる。

突出しない横並びというと、ある種「1億総中流」の時代と何も変わっていないようにも感じるけれど、みんなで上っていこうというのと、目立たないように引っ込んでいようという点では全く逆ではないだろうか。

ある人が述べていたことだけれど、「最近の<若者の内ごもり>に関して言えば、社会全体が内ごもりしていて若者はその<空気を読んでいる>だけ」と。

まさに言いえて妙だと思う。

例えば最近の若者はマイカーを持ちたいと思わないとか、お金もちになりたい子が少ないとかいろいろ批判されるが、お金持ちの若者が出てくれば徹底的に叩かれたり、金銭的豊かさと人の幸せはどうのとか、トンカンギコギコと物を作れば賞賛されて情報機器を駆使して成功すれば「虚業」と言われ、倫理だ道徳だとあらゆる理屈を並べて叩き潰そうとする社会で、「空気を読む世代」が抜きん出てくるはずもない。

内ごもりしているのは若者ではなくて社会全体という指摘はそういう意味でまさにど真ん中を突いているように思った。

これは「落ちていく社会の象徴」のように感じる。

いわゆる沈み行く者はそこにある何物でもつかもうとするかのように、1億総引きづり下ろし現象のように感じる。

そうなれば、第一次ベビーブームの物あまり金あまり世代に現代世代が敵うわけが無い。

沈み行くものが、見果てぬ夢を駆け上る世代に託す…そんな時代になればまだ期待は持てるが、先の世代が後の世代に託すものが「借金の返済」だけなのだから笑うに笑えない。

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2011年4月24日 (日)

出口の向こう

042401ローマ法王ベネディクト16世が「劇的な災害から立ち直るとともに、慰めと希望を見いだすように」と日本へのメッセージを発したそうだ。

ローマ法王まで動くほどの災害だったわけで。

今回の災害は世界中に強烈な印象を与えたようで、日本よりも、たぶん被災地の方々よりも圧倒的に過酷な生活をしている国々の人たちからも義捐金が集まるなどある意味衝撃的だった。

1日1食食うや食わずの地域からの募金、首都でありながら被災地よりも荒廃した中で弾丸飛び交う中で「日常」を送る人々からの寄付金、平均で見て世界ワーストに位置する貧困国からの寄付金。

まるで日本が半分海の底に沈んでしまったかのような印象を与えているのではないだろうか。

事実、「自分が今住む町と比べて景色はほとんど変わらないし、生活はむしろよい気がする」というメールを送ってきた友人もいる。

とうとう赤十字も、「日本に寄付が偏らないように配慮してもらいたい」とコメントを出し、集まった寄付金の一部は日本以外へ回すことにする旨発表している。

確かに過剰な自粛は問題であるとも思うし、他府県で経済が回らなければ復興に支障をきたすという言い分も分からないでもないが、世界が日本に向けてくれているこの想いの中で、花見がどうのと言っている場合かと思う。

例えば1万円の費用で花見をしたとして、持ち寄った飲食物の裏側表記を確認すればその何割に「MADE IN CHINA」と書かれているだろうか。

それでも輸入や小売などで日本経済に関係しているといえばそれまでだけれど、結果的に1万円のうちの何割が被災地復興に役立つのだろうか。

ならば花見をやめて1万円のうちの1割、千円を直接投資したほうが効果は高いように思う。

もしくは「MADE IN CHINA」だろうと飲食物を集め、それをごっそり持って被災地に乗り込み、苦しい避難生活を強いられている方々を交えて花見をする方がずっと意味があるように思う。

 

繰り返し「日本はすぐに立ち直る」「希望を持って」と国内外の声を耳にするが、この甚大な被害から脱し元通りに戻ったとしてもそれは「既存の国家崩壊具合」であり「希望の持てない社会」へ戻るだけであるということは間違いないように思う。

甚大な被害を受けたのでまるで元の生活がすばらしかったように感じるが、そもそも危機的な国家状況にあった日本なので、被害の出口の向こうに見えているのは、元の「崩壊への道」の道中であるということがとても悲しい現実。

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2011年4月23日 (土)

8本目の木

042301 8本目の木。

今回は2010.11.28から2011.04.10までなので133日。

1本目から、66日間・77日間・79日間・75日間・110日間・132日間と来て前回は119日間とぐっと短くなったので期待し、出来るだけ頻繁に更新したけれど今回は再度130日台。

結局のところ生育に「更新頻度」というのはあまり関係のない要素のようだ。

やはり環境重視型ブログパーツなので、環境問題関係に多く触れなければ早い生育は望めないのかもしれない。

といってもそういうことばかり触れてもいられないのでこれくらいのスピードが限界かと思う。

年間3本くらいを達成できれば御の字かもしれない。

そういえば、このgremzは原発に関してどういう立場をとっているのだろうか。

クリーンエネルギーとして鳴り物だった原発が問題を起こし、果たして本当に安心安全なエネルギーだったのだろうかという議論が世界中で起こっているが。

しかしよく考えてみれば、線引きがとても難しいけれど、「安心安全」と「クリーン」とは別物かもしれないと思う。

クリーンなエネルギー源だけれど、安心安全と同意義ではない…というような。

でも放射性物質が拡散することによって大気や海洋、もしくは土壌が「汚染」されるわけなので「ダーティー」だと言われれば確かにクリーンエネルギーとも言いにくいかもしれないし。

ヨウ素やプルトニウムも二酸化炭素も同じと言われれば同じにも感じるし。

ただ二酸化炭素は自然構成要素の重要な一部である植物が「必要としている」と考えると、CO2の方が必要とも言え、そう考えると「火力発電」のほうがずっと「クリーン」であったりもする?

二酸化炭素排出量が超絶的に減ってくれば、地球上の緑地面積も減ってきたりするのか?とかSFみたいなことも考えたり。

などという迷路に入ってしまうのだが。

いずれにしても、「電力消費量」という意味では特に日本は宇宙から眺めて「光り輝いていた」と言われるほど過剰だと思うし、そういう意味では効率は非常に悪いように思うが、この夏の電力も火力発電の再稼動や揚水発電などを加えていくともうじき手が届きそうなくらいにまで近づいてきているようだし、シェールガス発電などが加わってくれば、原発がないと生きていけないというレベルではもはやないのかもしれない。

原発がクリーンエネルギーなのか、安心安全なエネルギーなのかという議論とは全く関係なく、「原子力なんて時代遅れの技術」と言われるような時代が早くくればいいなと思うのであった。

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2011年4月22日 (金)

復旧・復興に全力で取り組む決意

042201衆院本会議で、東日本大震災から復旧・復興に全力で取り組む決意を示す決議が全会一致で採択されたのとのこと。

仕組みがよく分からないがこういうことをわざわざ採択しなければいけないのか。

国家運営というのはなんとも面倒なものだ。

復旧復興に取り組むことを反対する人もいるかもしれないので意思確認をするということなのだろうか。

そして仮にこのように採択されたとしても、それぞれのスタンスで復旧復興につながる道筋というものに違いが出るだろうからその押し問答が続き、上手く転がっても「妥協点」ということでひん曲がったものになるのだろう。

○○をして復旧復興につなげると起案すれば、違う派は△△をしなければ復旧復興につながらないとか、もしくはそちらのほうが公平だとか近道だとかそんな議論が続き、最初に起案した方は「復旧・復興に全力で取り組む決意を示す決議が全会一致で採択されたはずなのに○○党は復興に協力しない」とか不思議な論理展開をするのだろう。

批判された方は「復旧復興に反対しているのではなくて、○○の方法ではなく△△の方法で」とくだらない言い合いが続くのがいつもの国政のストーリー。

中央では「復興構想会議」なるものが立ち上がり「左の象徴」のような防衛大学校長五百旗頭真を議長に以下14名の計15名で構成された。

もちろん中心被災地3件の県知事が含まれていたり、委員の中には被災東北3県出身の人もいるなどそれなりではあるけれど、こんなことでよいのだろうかという疑問もわく。

もちろん「構想会議」なので特段の権限も持たないだろうし、あくまでも最終的には中央政権が判断していくのだろうから関係ないのかもしれないけれど、たとえそれが広大な面積に及んでいたとしても、ある地域が被災をしてどのように復興していくべきかを検討する会議が中央で行われるというのはいかがなものだろうか。

東北3県の復興であれば東北3県が中心になって希望をかなえていくべきであろうと思うのだけれど。

あるテレビ討論会で、「国が出来る最大の協力は、中心先頭に立って行くことではなくて金を出して口を出さないこと」と指摘していた大学教授がいたがまさにそのとおりではないか。

邪魔になる法律や規制もあるだろうから、新立法なり改正なりで都度援護射撃をしていく。

その程度が中央のすべきことであろうと思うが、率直に言って他府県の人たちが「東北はかくあるべき」なんて口にするなんて大きなお世話だと思う。

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2011年4月21日 (木)

マニュアル大国

042101集められたまま、被災地へ送られなかった救援物資。

現地に要望を聞き、その品目で物資を募った。

しかしいざ発送の段になり現地に必要な数量などを問い合わせた結果、すでに需要がなくなっていたとのことで発送されずに集積地に積まれたまま。

無理に送っても現地に迷惑をかけるだけかもしれないとのことで。

品目は毛布・タオル・ウエットティッシュ・紙おむつ・水の5品目だそうだ。

譲って毛布やタオルは必要ないとしても、ウェットティッシュや紙おむつや水などはいまでも消費がありそうだと思うのだが。

担当者は「今後の課題としてタイミングよく救援物資を送れる仕組みを考えたい」と述べたそうだが、これってどうなんだろう。

頻発する地震に加え火山噴火もあるし今回のような津波も規模さえ別にすれば珍しいことでない災害列島。

そんな国で過去に何度も救援物資を集めて送るというようなことはしているのに、なぜいまだにそんなことが今後の課題になるのだろうか。

記憶に新しい大規模災害といえば、阪神淡路大震災や新潟中越沖地震などでは甚大な被害が出た。

当然全国から救援物資が集められ現地に送られた。

そのときも同じような問題が発生し、廃棄に至ったものも多いと聞く。

にもかかわらず今回もまた同じような事が。

過去の経験からいったい何を学んだのだろうか。

こんなこと、システマチックに段取り良く行えないのだろうか。

マニュアル大国日本だからこそ、GOサインを受ければ即淡々と手順良く行えるような気がするのだけれど。

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2011年4月20日 (水)

それなり

042001商業テナントビル業大手のパルコの人事ニュースが久しぶりに画期的だと思った。

株主提議によって、右側の社長が退任して、左の専務が新社長に。

大株主があの森トラストだということもあって、跳ね除けるのも難しかったのかもしれないが、旧社長曰く「パルコが経営の主導権を取る為」とのこと。

いろいろ なパワーバランスとか思惑や魑魅魍魎がうごめいた感じがするが、いずれにしても株主意向でトップが替わるというのは良くも悪くもだいぶ「資本主義」チックだ。

仕事柄いろいろな会社を見ていたり、時には中に入ったり、また話を聞いたりしていつも感じる不思議なセオリーがある。

結局のところどこもそれなり。

経営が苦しくなると、経営陣の多くはすぐに社員の質を嘆いたり、尻を叩いたりする。

一方で社員は会社が気に食わないと経営陣とまでは言わないまでも上司の悪口を。

しかし傍からみれば全部それなり。

この上層部にしてこの課員。

この経営陣にしてこの社員。

もちろん中にはずば抜けて優秀な人がいたり、新入社員やそれに限りなく近い年次の社員の場合また異質であったりするが、ある程度月日が経てばみんな同色。

だから結局のところ経営陣が会社を変えたければ自分を変えるか、交代するのが一番の近道で、社員が会社を気に入らなければさっさと鞍替えすべきだと思う。

ほぼ間違いなく、優秀な経営陣に普通の社員、優秀な社員に普通の経営陣なんていう反比例な関係というのはありえない。

みんな「それなり」

これはアメリカのように人材の流動性が高い企業ならば避けられる現象なのかもしれないが、日本のように学校を出て就職して、そのまま定年退職をするような「硬直」した構造になっていれば必然だと思う。

時としてそれは強烈な団結力を生むというメリットもあるけれど、多くの場合それは弊害で終わってしまうのが現代であるように感じる。

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2011年4月19日 (火)

営業は第三者に任せろ

041901「千羽鶴を最近見なくなった」と思ったのはある病院へ行った時。

昔は部活で骨折だとか、盲腸で入院だとか、そんなことがあればすぐに寄せ書きとか千羽鶴が病室に届いた。

最近はそうでもないらしい。

千羽鶴を見ると言えば広島くらいだろうか。

そこで少し調査をしてみた。

千羽鶴は昔からあるものだけれど、当然といえば当然かもしれないが、やはり若い子が作ったり贈ったりするケースが多いよう。

ところが最近では、その存在は知っていても面倒だとか時間がないとかそういう理由で製作に着手されないことが多いみたいだ。

ネットで調べてみると完成品も2万円弱くらいで販売されているので、お金持ちの若者なら必要に応じて「購入」という選択をするのかもしれない。

そこで少し着眼点を変えてみた。

特に内科系の入院の場合それは中長期に及ぶ事が多いが、病室を覗くとやはり年齢層が高い。

しかしこれも「核家族化」の弊害か、子や孫など若い人の見舞い客は少なく、兄弟や姉妹、もしくは年老いた両親などのケースが目立つ。

この現状を逆手に取れないだろうか?と考えた。

医療機関というのは基本的に集客活動が出来ない。

ということは「リピート」や「紹介」で「来客」を増やすしかない。

つまり、どれだけ快適で満足感のある入院生活を送れるかというのはかなり大きなポイントだ。

そこでいくつか打った手の一つがこの千羽鶴。

中長期入院患者に対してナース室から千羽鶴をプレゼントする。

「早期快気の祈りをこめて」

長く入院してもらった方が儲かるけれど早期退院を祈る。

忙しい「看護師」という職種柄千羽鶴などを作っている余裕はないし、購入すれば「機械折」がみえみえだし、そこで「手折り千羽鶴」を納品してみることにした。

製作は知り合いの「出産休業復職困難者」に「内職」で発注した。

かなり評判がいい。

まだ集計期間が短いのでリピート率は正確に把握出来ないが、確実に紹介率はいい。

医療機関は集客活動が出来ない…それは広告活動の話であって、「人の口に戸は立てられぬ」のが世の常。

カーブがダメならシュートを投げればいい。

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2011年4月18日 (月)

逃げ得

041801エネルギー庁などからの「天下り」が批判されている東電。

一時は4名くらいいたと思うが現在はどうなのだろうか。

これだけの大問題に発展したので「天下り=悪」論が再燃するのは当然のことだと思うが、ふと違う「いじわる」な側面も思いつく。

すでに「政府」では天下りの是正や自らの「適切な対応」を求めるコメントが出ている。

民主党がまだ野党で鼻息が荒かったころから「天下り問題」は国会や各委員会のお決まりの議題で、民主党が政権奪取する際「旗」の1本であったことは事実。

そしていざ政権が交代した後も大量の天下りがあったと今度は下野した自民党を中心に総攻撃。

そのときは「極めて優秀な才能を生かさないのは国益に反する」くらいのことを振りかざした。

企業側も利益誘導ではなく、「その才能が必要だから」という理屈。

ならば、このような重要な企業の、もしくは国家国民の危機なのだから今こそ天下りさせたらいかがか、その「極めて優秀な才能」とやらを。

サンドバック状態の企業に身を投じ国益の為に多いに働いてもらったらどうか。

本当に企業にとって有益で、本人も「必要とされるなら」とか慎ましやかなことを言っていたのだから、ぜひ官僚各位にごっそり入ってもらって、国民の投石を全身に浴びてつつも問題解決に奔走してもらったらいいと思う。

事実、それが官僚であれなんであれ、東電にとっては今こそ助けが必要な時だろうし。

問題が起きていない企業には天下りをして、問題が起これば「自粛」という表現で避ける。

そんなことのほうがよっぽどおかしいと思う。

これは企業の社長や会長、もしくは役員なども同じ。

問題が起きたら引責辞任するが、これは実際のところ「逃げ得」。

問題対応専従にして解決まで張り付けにしておけばいいと思う。

過去の歴史を見てもネスレなどで実際にそうだったように、そのほうがむしろ企業価値も上がると思う。

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2011年4月17日 (日)

英知

041701やっと出てきたロボット。

放射線垂れ流しの福島第一原発の内部撮影に挑戦するそうだ。

瓦礫撤去とか放水、上空からの撮影とこんな事態なのでロボットの主戦場。

FUKUSHIMA50などと名を上げたり、自己犠牲で献身的な云々と国内外で賞賛されるが、日本のイメージからして「なぜロボットが出ない?」と疑問に思っている外国の方も多いのではないかと思う。

国内でさえそうなのだから、技術の日本というイメージを持つ人ならなおさらだろう。

しかし実態はこの有様。

1ヶ月前に登場すべきだったのではないか、何かにつけてなぜこんなに遅いのか…ということはもはや後の祭りなので言っても仕方ない不思議な国家の愚鈍さがあるわけだけれど、もうひとつの不思議は、なぜ日本にはこういうロボットがないのかということ。

例年ロボットの国際大会でもいい戦いをしているみたいだし、工業化がこれほどまでに進んでいる国で、自動車でも家電でもあらゆるものに日本の部品が投入されていて、さらには震災時に瓦礫を乗り越え活動するロボットなんていう紹介も平時にはしょっちゅうやっているのに、いざ問題が起こって登場してきたのはiRobotというアメリカの民間会社が開発したロボット。

よく分からないがこれも軍事技術の転用なのか、もしくは商業技術の軍事転用なのか。

こうなるとやってみたいのはこのロボットの分解。

この中に日本製の部品はどれくらい入っているのだろうか。

日本は同じような物を作る技術はあるのか。

たぶん、蓋を開けてみればどうってことのない話に思えて仕方ない。

ということは「日本は作っていなかっただけ」ということになり、それが「未曾有の大惨事」に対応できないことになり、「想定外」を想定していかったという結論に。

想定外の事は起こるだろう。

でも想定外の事が起こった場合を想定して対応をすることはいくらでもできるだろう。

大きな自然災害が起きると必ず「自然は未知数でその力は計り知れない」と結論付けてしまうがそれは大きな間違いではないかと思う。

人間は自然をすでに知っていると思う。

「自然の力に人間は到底及ばない」

それだけ分かれば十分なのではないかと。

残るは「想定外を想定」するだけの話で、「防衛」はできなくとも「対応」は迅速にできるのだから。

賢者ソクラテスが生きていれば「無知の知」とつぶやくのではなかろうか。

それこそが「英知」だと思うのだけれど。

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2011年4月16日 (土)

過剰消費の抑制

041601都知事の発言で槍玉にあがった自動販売機。

対して節電啓発大臣からは「経済に影響が出る」と異議も。

ところが、清涼飲料メーカー各社は「輪番停電」を決定した。

数時間冷却を停止させても庫内温度は1度程度しか上昇せず、飲料には特に影響は出ないそうだ。

「協力的な企業努力だ」

そう思ったら大間違いで、「だったらなぜ平時からそうしないのか?」という疑問。

「そもそも」の部分で、この国には垂れ流しが多すぎるのだと思う。

電気消費量が減れば当然利幅増えるわけだし、それはひいては納税にもつながり、節電だどうのという前に、資金や税も含めたあらゆる意味での「エネルギー」が無駄に使われすぎていたのではないかと思う。

都知事の言う「生活スタイルの見直しの機会」というのはもっともな意見だと思う。

 

また、最近国内で多く耳にする経済第一主義というか、「経済が回らなければ復興がままならない」という見解は、ある意味正しいけれどその理論を振り回すのは大変危険だと思う。

他地域で消費を促せばそれが回りまわって経済の潤滑油となって被災地への力となることは認める。

しかし、物理の法則と同じで迂回させればさせるほどロスも出るもので、例えば他地域で1万円使うのと

その1万円をそのまま寄付へ回すのとでは効果に雲泥の差が出るだろう。

場合によっては被災地はまったく関係ない形で循環するケースもあるし、それが納税などの形となったとしてもそこからのアウトプットが形成されなければほとんど効果は出ない。

そんなことを考える人はいないだろうが、極端な話、消費を促さなければということで海外旅行へ行ったりしたらどれくらい被災地にとって意味のある消費か。

消費自体は大事だと思うが、同じ消費でも被災地へ直撃するような効果が出る消費に集中させていくべきだと思う。

どのみち必要なものは必要なわけで、節電などで受ける経済的ダメージと、一部経済を止めてでもその資金を復興に直接回すのと結果的な経済的影響を考えなくてはいけないと思う。

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2011年4月15日 (金)

危うき似近づかず

041501風評被害となると、すぐに政治家というのは農作物を食べてみせる。

安全のアピールというがアピールになっているのだろうか。

むしろ媚を売っているようにしか見えない。

このように政治家が口にしてみせるものというのは、事前にチェックがされているだろうし、そもそも風評被害なるものを作り出している側が食べたところでなんの意味も感じない。

ただまるで国民が悪者のように仕立て上げ、自分たちは知性のヒーローだと主張しているようだ。

確かに、圧倒的多数の農作物に問題はないだろう。

暫定規定値超えをした農作物だって、特段の問題はないだろう。

ただし、「規制」に引っかかっただけ。

この人たちが作っている規制に。

本当に安全をアピールして流通や販売の促進をしたいのならば、「暫定規定値は安全に安全を見て過剰すぎるくらい厳しい。それらの農作物を摂取したからといって直ちに健康に被害を及ぼすことはない」と繰り返しているのだから、もしこういうことをしたいならば「暫定規定値に引っかかった農作物」を食べて見せるべきなのではないか。

そうすれば「風評被害」とやらも下火になるように思う。

規定値超えのものでも食べているのだからまったく問題ないだろうと。

風評被害対策という名の票取り合戦ではなくて、「安全を見すぎていると言える規定値対策」で農作物を口にしたらどうだ。

食べ物でも、大気でも、エリアでも、「直ちに健康に問題があるわけではなく念の為」というようなことを言うわりには、その当事者たちは一切近づかないのが全てを物語っているように思えてならない。

あなたたちが馬鹿の一つ覚えのようなパフォーマンスをしなくても、国民は流通さえしていれば普通に購入するだろう。

その流通に支障をきたした人たちが風評被害の主犯者達なのではないだろうか。

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2011年4月14日 (木)

募金破産

041401街中どこへ行っても募金活動をしている人を目にするし、募金箱もそこらじゅうに置いてある。

悪評だったACのCMから脱したメディアは今度は「募金のご案内」に必死だ。

募金は大切なことだと思うし、必要なことだとも思う。

そういった活動をしている人に敬意も払う。

しかしもう少し組織的になんとか出来ないものだろうか。

われ先に「募金活動を奪い合う」ような現象を時々目にする。

例えばある駅で、日赤や中央共同募金会、地元商店会などをはじめ計5団体が改札まで並んでいたことがあった。

各団体で5つの募金箱を持って並んでいれば25個並ぶことになる。

いたたまれないので、列の真ん中あたりで募金するのだが。

この活動に疑問を覚える。

本当に効果的な募金活動を考えるのであれば、散らばったほうがいいのは言うまでもないし、そこを通る身になってもまるで素通りする薄情者のような気分になる。

出来るだけ募金をするようにするが、こうびっしり並ばれては募金破産をしそうだ。

これで復興税とやらまで登場してきたらいったいどうなるのか。

そしてもう一つ悩ませるものが。

この募金はどう使われるのかという疑問。

被災者に按分されるのもいいだろうが、現地でボランティア活動している人、私財を投げ打って戦っている人、保有する物資の提供をしている人、さまざまな人が多く活動していて中には決して余裕があるわけではないのに使命感で立ち向かっている人も多い。

そんな人たちの物品購入費にも充ててほしいと願っても、それはなかなか届かない。

一方で、知り合いの日赤職員はたぶんこの後マイカーを買い換える。

阪神淡路大震災のときも新潟中越沖地震の時もそうだった。

本人に直接その件を言うと、「それは言わないでくださいよー」と苦笑い。

募金や支援と言えばすぐに日赤などが最前列に立ち、まるで国を代表するかのような顔をするが、果たしてそれでよいのだろうかと思う。

経験からも、現地に救援で入るのはかなり遅く、また本当に危険なところには近づかずまったく「救急」の役には立っていなかった日赤。

事情も分かるので否定はしないけれど、出来るだけ経費消化される分を最小限に抑えられる選択肢はないものかと思案する。

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2011年4月13日 (水)

風評被害ってなんだ

041301福島第一原発の問題で、農作物を始めとして魚介類にも影響が及んでいる。

連日のように紙面や画面で目にする「風評被害」という言葉。

果たして風評被害の正体とはなんなのだろうかと考える。

出荷停止や制限を受けた商品が流通に乗らないのは「風評」ではなく規制だろう。

風評被害というからには、全く問題ない商品が他の「イメージ連鎖」で購入されなかったりすることだと思う。

そもそも流通に乗らないというのも、問屋や中卸が「買わない」ということで「不買」がいわゆる「風評被害」なのだと思う。

しかし考えてみれば妙だ。

末端消費者においては、スーパーなど市場に出回らなければ買おうにも買えないわけで、「風評被害防止運動」などをされても無駄。

事実、「買いたくても売ってない」という声も生産者側に多く届くらしく、ネットなどで販売するとそれなりのスピードで売れて行くそうだ。

ということは、小売が触手を伸ばさないことが風評被害なのか。

しかし考えてみれば流通性の高いもの早いもの、より安全なものより良質なものよりニーズのあるものを店頭に並ばせるのが小売業の基本であって、そのものが汚染されているかどうかは関係ない。

逆に言えばそういう厳しい争いが例えば「有機野菜市場」を構築したり、「安全な日本製」などと浸透させたわけで、店頭に並ぶから安全で、並ばないものが安全ではないということでもない。

小売業の限られた「棚スペース」というのは平時であっても日々熾烈な奪い合いが行われているわけで。

それが経済の原点でもあり。

では一体風評被害というのはどこにあるのだろうかと考える。

確かにそういうものもある一定量あるのだろうけれど、本質はもっと違うところにあるのではないかと思う。

それは「流通の1本化」であったり、「経営の依存性」にあるのではないかと思う。

例えば生産者が幾つもの流通ルートを持っていた場合、現状のように深刻な問題になっているだろうか。

「大手スーパーが買わない?なら直営の販売店で売るさ」

くらいの体制であればなんら問題ではないのではなかろうか。

しかし全国の小規模生産者にそんな体力はないとの指摘もあるだろう。

しかしこの国には世界的に見ても巨大な金融機関を持つJAという組織が全国をびっしり網羅している。

JAで直売すればいいではないか。

今回に限らず様々なシーンで「風評被害」というの起こってきたわけで、それは風評に限らず「形の悪い野菜」などでも同じ。

各JA店舗にそんな労力を割けないのならば全農でそういうサイトを日頃から備えておけばよい話。

実際農業でも漁業でもそんな「超直売」を行っているところは多いわけで。

結果、現在起きているのは風評というよりもやるべきことを日頃からやっていない人たちがいるということなのではないだろうか。

それが経営の脆弱性を生み出し、弱者なり被害者なりを生み出しているだけで、農業に限らず酪農や漁業であっても常に薄氷の上を歩くようなことになっているのではないかと考える。

一体JAは何をやっているんだと思って調べたら、原発の影響で避難地帯になっている南相馬のJA会長はいち早く北海道のJAの協力で避難していたようだ。

自宅が被害に遭っておらず、しかし避難地域に入っている人は引越し先の提供もろくにされずホームレス状態に陥っていた時にJA南相馬のトップは職権乱用真っ最中だったわけか。

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2011年4月12日 (火)

資本論

041201余震が続いている。

これは本当に余震なのか?と思わせるほど大きなそれが。

余震と言えば小さいイメージがあるが、地震列島日本の日常的なものよりも大きいと言える余震も多い。

がけ崩れや家屋の倒壊なども招き、死者も出ている。

余震であるかもしれないが、「本震」みたいなものだと思う。

震源が段々内陸に移っているとか、南下しているという見解もあるけれど、基本的に首都圏以北から東北圏が多い。

一方で江戸時代に東南海地方を主に襲った宝永地震では、その49日後に富士山が噴火したということもあって現在でもその話題はあちこちで耳にする。

そして事実富士箱根近辺を震源とする「活動」が活発化しているという報告が多数上がっている。

実際に富士山が噴火するのか、東南海地震が起こるのか、あるいは全く別に地域で災害が起こるのか全く分らない。

日頃の仕事で考えれば、「弱り目」の時に「たたり目」はやってくるもので、そんな嫌なことがあってはもはや希望の光も遮られてしまうので勘弁願いたいもの。

単に、「たたり目」は「弱り目」の時にやってくるので「たたり目」に感じるだけで、健常時にやってくれば難なく乗り越えて気付きもしないものなのかもしれないが。

政府では「復興委員会」のようなものの設置を決めたようだし、某全国紙でも一般募集もしてそんな取り組みをしてみようという動きはあるようだ。

しかし、ここでも繰り返しになるが、果たして話題は東北の復興なのだろうかと疑問を感じる。

もしくは原発絡みで「国家のエネルギー政策」なのだろうかと。

もっとそれ以上に根本的な構造論に話は行くべきなのではないかと。

東北では居住地を高台へ移すとか、海辺には海洋海産業を集約させるとか、コンクリで足高の人工地盤を造るとか、そんなことよりももっとドラスティックな何かがまず最初にあるべきなのではないかと感じている。

悠長なことを言っている場合などなく、今日明日、そして来月を生き延びるために今必要な議論だといわれればその通りだと思うのだけれど、その同心円のもっと遠くにいる余裕のある人たちは違うことに従事しても良いのではないかと。

例えば、ここで新たな資本主義を定義してみるとか、日米関係を考えてみるとか。

東証には約3千社が上場している。

仮にこれらの企業が震災直後に避難所を現地に作り管理運営すれば3千箇所。

20万人の被災者だとしても1箇所70人も収用しなくてよい規模に過ぎない。

例えば会社の規模に合わせて3分割し1・5・10億円即日支援すれば1.6兆円になり、第一次補正予算レベルは民間によって数時間で補えてしまう。

そんな「即応宣誓」や日頃の準備を上場基準に設けたらどうなるか。

企業会計上は特損になりフロー上はマイナス評価かもしれないが、「マーケット力」としては世界的にも高いものを形成することが出来、それが全体像としての国家経済金融市場に高く安定的な評価をもたらすかもしれない。

それは資本主義ではなくもはや社会主義だと言われればそうかもしれない。

でも、強靭な軍隊や、大規模な自衛組織など持たなくとも、資本主義社会にはまぎれもなく「企業という戦士」がいるわけで、「自らのマーケットを守る」為に闘うのは決して資本主義に反することとも思えない。

少なくとも「対外交渉」ごとではなく、「自難」を自己対処出来るくらいの戦力にはなるはずで、これはある意味「富国」であり、「強兵」でもあると思う。

特に日本のような小さな島国で大なり小なり「同じ釜の経済」を強いられる環境ではなお更。

そんな社会主義でも新資本主義でもない原点経済に立ち返ってみてもよいのではないかと思う。

「日本から新経済概論を定義してみないか」

そんな提案をしてみる余裕はないだろうか。

災害をチャンスに変える。

不謹慎なことかもしれないが、起こってしまったスーパーパワーに対抗する残された少ない選択の一つだと思う。

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2011年4月11日 (月)

罹災者は誰か

041101












東日本大震災は甚大な被害を東北3県に及ぼした。

例えば首都圏、例えば他府県で言えば電力が不足しているとか物資が不足しているとか、あるいは観光や作物などで風評被害を受けたとか、そんな諸々なことはあるが大前提として東北3県の凄まじさとは全く比べ物にもならない。

そんなことを当然踏まえた上で、他府県の人たちが「被災者と自分達」を明確に分けていることがよく理解出来ない。

「心は一つ」とか「団結」とかそういう言葉が踊る背景には、自分達は無事という気持ちがあるのではないかと思う。

確かに無事。

でもそれは地震や津波で「直接的被害」を受けなかったというだけに他ならない。

例えば外国人がこれだけ出て行った後の日本のGDPは、毛を刈られた羊のように実態が明らかになるだろうし、極端に国内の生産力が落ちた状況で経済は回るのかという疑問もあるし、結局のところ国の経済全体を支えていると思える首都圏がその根底を支える東北3県の機能停止によって力を弱めれば日本はどうなるのかとか、「内需・外需」と不毛な議論が続く経済も輸出が困難になってくれば存続しうるのかとか。

過剰な自粛は経済を弱め復興を遅くするという名目で消費を促すが、「自粛を自粛」して経済をまわすとしてもなぜその「反自粛」が娯楽や享楽の方向へばかり向くのかという疑問。

そういうマクロ的な部分をおいておいても、被災者は本当に東北3県だけだろうかという話。

例えば今でこそ周知されたようだけれど千葉などの首都圏でも液状化や地盤沈下は各地で見られ、統一地方選が実質見送られるほどその被害額は大きい。

しかしそのほかにも甚大な被害を受けているところはある。

四国関西圏で養殖業をやっている知り合いがいるが、数十万という魚をはじめ施設が壊滅したという。

一部テレビなどでも取り上げられているので知っている人もいるかと思うが、北海道から九州方面まで列島各地で養殖業は壊滅的、あるいは甚大な被害を被っている。

太平洋側だけかと思えばそうとも限らず、知り合いの養殖業者は瀬戸内の内海なのだけれどそれでも網が絡まり魚は傷だらけになって数日で「浮いた」と言う。

そして何億円という被害額であるにも関わらず、何の補償も保険もないそうだ。

廃業という文字しか思いつかないと暮れる。

これは当事者以外でもじわりじわりと高騰してくる「魚介類の価格」で被害を感じるだろう。

漠然とした言い方になるが、「自分は当事者ではない」という感覚は東北の罹災者の方々を助ける側に回るべき身としては大事かもしれないが、実態は「自粛は経済を悪化させる」なんていう理由で浮かれている場合では全くないと思う。

「東北の方々と一緒に戦う」…確かに気持ちは分るしその通りだと思うけれど、もっと「当事者意識」を持つべきなのではないかと思うのだ。

日本は島国で小さなどんぶりの中で一億数千人がひしめき合って生きているわけで、結局のところ全員が繋がっていて、今般の災害に限らず「主体的な活動」が求められていると感じる。

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2011年4月10日 (日)

電力が余る週末

041001 



原発が果たして必要なのか、もはや無くてはならないのか、それとも様々な問題があったとしても無しでやっえいけるのか、それは一にも二にも、発電力と消費量にかかっているわけだけれど、例えば本日のような休日の昼前後であれば60%台中盤になることも。

直流と違い交流は蓄電が難しくその変換には多くの熱を発生させるとか、直流では高電圧が生み出せないとか色々学んだ。

なるほどそういうことか。

しかしながら使わない時はこのように1,300万kw以上余り、足りなくなるとちょうどその分くらいショートするというのはなんと効率の悪いことか。

聞けば「夜間電力」という意味でも一時ほどの余剰はなく、ひとえに気温や平日休日の違いにかかっているよう。

ということは単純に、不動産などに見られるように平日休んで休日に稼動するような工場などが増えてくれないことにはどうしようもないということ?

また「空調用電力」が代替エネルギーに転換されればOKということ?

学生の頃に学んだような気がするが、基本的にエネルギー量というのは大まかに変わらず、単に「転換」されるだけだったような。

ただ、熱とか摩擦とか色々な形にも変わるでの実質はロスになって消えてしまう部分が多いというような内容が記憶の片隅に。

例えば余った電力を使って水力発電の水をポンプアップして再度発電に使うとかそんな「変換」も行っていたような記憶。

方法があるならばそんなものとっくにやっているのだろうが、しかしながら一方で電力使用率が80%とか90%の日がある一方で半分ちょっとしか使っていない時もあるというのは甚だ勿体ない。

 

ところで、現状で原発は大問題を起こしているけれど、原子力発電というのはそんなに危険なものなのだろうか。

原子力発電が危ないというより、その使い方や体制やシステムとかそんなものが非常に危険だっただけなのではないかとも思う。

原発問題が論じられる時、それは「刃物は人を傷つけるので危険だ」というような論法に聞こえてしまう時がある。

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2011年4月 9日 (土)

Operation Empire State Rebellion

 

ハッカーグループAnonymousが狙うFRB Banking Systemに関するビデオ。

これはもう先月の話しになるが、同じ頃にみずほBKのATMシステムがダウンし、今日はゆうちょBKのATM約1,000台(同行の全ATMの約4%)が停止したというニュース。

みずほは「寄付金の集中」が原因だというし、今回のゆうちょはまだ原因がはっきりしていないが、言うまでもなく世界的な「ハッキンググループ」とは無関係だろう。

しかし、考えてみれば今日本のシステムというのは全体的に脆弱になっているだろうし各種混乱も起きているだろうから、狙うにはうってつけの場面なのかもしれない。

特に先月後半は。

攻撃してなんのメリットがあるのかという話しはあるが、一部の国にとってはスカッとする話しだろうし、特にメリットがなくともやる人や団体はあるかもしれない。

まぁかなり映画的な話しだけれど、今の時代「ありえない」とも言えないのかなと。

技術の日本と言われて、もしくは自称して来て、原材料のハンデ面や新興国の技術的台頭などもあって、これからの日本は「システムとしての販売」を掲げていた面があった。

しかし先般、その誇る「システムとしての日本」も虚像だったと考えざる得ない状況になってかなり弱気になっている。

どこからでもやられたい放題の国なのかもしれない。

一枚めくれればボロボロと崩れそうな「感覚」を持ってしまう。

TVCMなどでは日本は強いと繰り返しアピールするけれど、なぜか空々しく聞こえてしまう。

正直、元に戻そうとか、より良くとかそういう観点ではなく、国全体、経済全体、生活スタイル全体新たな道を模索しなくてはいけない状態なのではないだろうか。

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2011年4月 8日 (金)

原発の是非

040801東日本大震災で大きなトラブルに直面したままにある福島第一原発が世界中に原発計画の見直しを迫っている。

今までの反対派は当然鼻息荒いだろうが、推進派も見直しや慎重論が出ているのは当然だろうと思う。

そんな中で時々耳にするのは「なんだかんだ言っても現実問題として脱・原発は不可能」というような意見。

見識がないのでその正誤は分らないけれど、本当に不可能なのだろうかと考えてみた。

「不可能」な根拠は原発が供給する電力が必要だということが主で、CO2削減目標を達成させるためになどという高尚な話しは今はさほどメジャーではないだろう。

では原発の能力が本当に必要か。

もちろん、単純に考えて現在首都圏では計画停電を行っていたり、夏に向けて産業界でも輪番制を検討したり、現状では原発パワーというのは必要なのだろう。

では「草案」ともとれる夏に向けての計画を見てみる。

提案されている「節電目標」は大口需要家25%程度、小口需要家20%程度、家庭・個人15―20%程度。

日本の電力は27-30%を原子力に頼っていると覚えていたが、実際の目標数値は15-25%。

この差は柏崎刈羽の活躍と休眠中の火力発電再始動などで賄うという判断でよいだろうか。

で、この削減目標は達成できる数値かということ。

全くデータを持たないので正確なことを何も言えないのだけれど、宇宙飛行士が地球で一際眩しい場所と日本を表現するように、その「光量」的に光り輝く国の電力を20数%削減することはそんなに難しい話しではない気がする。

現に今、街中でスーパーや通りでもかなりの節電がされているが、さほど暗いとも感じない。

問題は工場などの大口需要だと思う。

輪番制などでどれほど生産力が落ちるのだろうか、またそれが経済力にどれくらいの影響を与えるのだろうか。

原発が手放せない社会かどうかは、電力量を維持しようとするからの話しであって、経済規模を犠牲にするのならば可能なのではないか。

つまり原発が手放せないのではなくて、一つの「生活レベル」を落としたくないだけなのではないかと。

逆に言えば、そこに新たな「豊かさ」を見出せれば解決されるのではないだろうか。

つまり、「労働生産性第一主義で行く」とか「暗くなったら寝る健康的な生活」とか、ある意味治安も改善されたりして無駄な出費も減るとか、GDPは減っても一人当たりの平均購買力は上がるとか。

原発の是非というのは、むしろ論点は違う部分にある気がする。

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2011年4月 7日 (木)

寄付金控除制度

040701復興に際して巨額の資金が必要となるのでその財源をどうするかと言う問題が議論されている。

増税をするとか、マニフェストに掲げた各種優遇制度を見直すとか、赤字国債頼りとか。

しかし、寄付に対する税制優遇を見直せば劇的な変化があるのではないかと思うし、そもそも論として平時より寄付に対する対応が足りないと思う。

例えば指定寄付金の認定の有無や、法人の場合寄付額の2.5%まで損金として控除できるとか、個人の場合はほぼ全額控除になるのに周知されていないとか、寄付先によっては住民税の場合は10%までとか、日赤やいわゆる「赤い羽根」で有名な共同募金会などの場合は全額算入可だとかとても複雑で、「善意に対してそれ以上の労力を求める」ことは妙だと思う。

例えば所得税や法人税を徴収して国として災害復興資金を出すのも、企業や個人が寄付をして災害復興金に充てるのも同じで、それならば個々の善意を直撃させたほうがずっと良い気がする。

極論を言えば、災害復興に限らず国の財政はほぼ全て寄付で賄われている…なんて資本主義社会の誉れだと思うが。

一方で常に問題になるのがユニセフと日本ユニセフの問題。

日ユは民間団体みたいなもので、びっくりすることに寄付金の最大25%まで経費として算入できることになっているようなので大黒字。

都心の一等地に時価何十億円というビルを建てて批判されたことをご存知の方も多いだろう。

日赤だって一概にいえない部分は多く、善意であれ「経費」はかかるわけだから、いわゆる国際支援のような場合は難しいとしても自国内のしかも極めて身近な「自治体そのものも被害者」である場合、より経費をかけずに必要とされるところへ直撃させるほうがずっといいだろう。

もちろん、ある程度「適した運用」をする必要があるから全部が全部直撃されると偏りが発生し問題だろうが。

商品物流で言えば「製造元から消費者へ最短ルートとすることによって中間マージンをカットし実現したこの低価格」とよく言うあれだ。

 

財源だ増税だ言う前に、もっとシンプルに寄付金控除制度を「東日本大震災仕様」にしてしまえばよいと思う。

そういう制度さえ知らずに一生懸命「指定外団体」などに寄付をしている個人法人も沢山いるのではないだろうか。

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2011年4月 6日 (水)

バランス感覚

040601相変わらずのヒステリックさだと思う。

震災間もなく、全国的に「自粛」ムードが広がった。

こんな時に不謹慎なと。

プロ野球の開幕問題でも同じ。

そして「買占め問題」とやらも作用して「消費を絞る運動」も起きた。

しかし自体の収拾に時間がかかるからか、我慢しきれなくなったか、最近では「自粛はむしろ復興を妨げる」というのが「正義の意見」のように広まっている。

こんな時だからこそ消費を拡大して、経済を回さなくてはいけない。

それぞれの見解や立場もあるだろうし、どちらが正しいとも間違いとも言わないが、しかしそのSpikeさには嫌になる。

もし「消費こそが大事」というならば、一時の「節約こそ美徳」運動はなんなのか。

災害も何も起こっていない平時に、不景気だ不景気だと連呼しながら「そんな時代を生き延びる術」としてありとあらゆる節約術や豆知識を毎日のようにどこかのテレビ番組が流していたし、雑誌などでもそんな特集ばかり組まれていた。

またある時は、「儲かった企業」が豪勢宴会をすれば眉間にシワを寄せて汚いものかのように扱う。

不景気だというならバンバン消費を促せばいいし、儲かった企業が内部留保せずに放出していることはむしろありがたいことなのではないか。

むしろ利益分全て放出してくれたらどんなに助かるか。

どうもこの社会はヒステリックというかSpikeが目立つ。

一方にガクンと傾いたかと思えばその逆を振りかざして正義として「反作用」を利用して大手を振って歩く。

結果その「逆」がまたSpikeと化す。

ひたすらそんな繰り返しだからあっちの動きに乗らなくては、こっちの動きに乗らなくては、少数派多数派とその地で生きる人間がどんどん疲弊していっている気がする。

もちろん、そんなものを無視して個人の主義主張を貫けばよいだけの話しだがそれこそ世界を代表するような国土の狭い地に世界上位の人口を有してギュウギュウになって生きているのだから個を貫くのもまた疲弊であったり。

バランス感覚が悪い気がする。

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2011年4月 5日 (火)

政治の基準値

040501原発の問題が絡まなくとも、「風評被害」なんてものは頻繁に起こる。

今回福島のほうれん草だとか規定値以上の放射性物質?が確認されたということで出荷が停止になり一気にその他野菜など原発近辺の農作物に影響が出てきている。

すると政府や報道では風評被害だ、その他のものは安全だと連呼し、一部は「応援の意味を込めて」と活動して。

いつもいつもそんなことの繰り返し。

出荷制限することが正しいのか、そもそもその基準値が妥当なのかという話しは専門の人に任せるとして、そもそも風評被害なのだろうか?という疑問を持つ。

何かあれば不安になるのは当然の消費者心理であって、ましてや災害が現在進行形なのだから流通に問題が出るのは想像に余りある。

しかし一方で、そもそも市場で受け付けないとか、小売が仕入れないとか波及してしまえば仮に「風評」に耳を傾けない人でも購入が困難になる。

結果消費量が落ちてそれを「風評被害だ」というのは間違いなのではないだろうか。

風評被害というよりもお上の人為的な流通低下かと。

例えばほうれん草に基準値以上のものが確認されたならば、法治国家なので一旦は流通を止めざる得ないと思う。

しかしその発表と同時に、他の基準内の作物に安全認定をしたらどうか。

それでも消費は問題視されるほど減るだろうか。

もしくは買いたくても買えない人も多いわけで、一方で全国各地に税金ドブ漬けのJAなるものがあるのだからそれを利用して流通させる手もある。

「民にすると疲弊する」と妙な理論を展開している日本郵便だって全国に運輸のネットワークがある。

そんな「分りきったセーフティネット」を敷いた上で「基準が厳しすぎるという問題もあるかもしれないが、現状ではほうれん草の出荷制限をせざる得ない。しかし基準の見直しも必要だと思う」と発表すれば、大問題になるほどの「風評被害」は抑えられたのではないかと思う。

そして、これによって農家の皆さんが被る損害を東電なり政府なりが補償していくのだからそれは回りまわって税金ということになり、別の言い方をすれば「無駄の削減」に真っ向反する話しなのではないだろうか。

十分な手立てを打って対応すれば、農家の方々が必要以上の損害を被る必要もなかったのだから、「税金を無駄に浪費する発表の仕方」としか思えない。

徹底的な無駄の削減というのは何も事業の削減ばかりではなく、政治が当たり前のことを当たり前に出来る最低「基準」の能力を持っていれば大きく促進できる話しなのではないかと思う。

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2011年4月 4日 (月)

ラジオ

040401災害が起こると俄然注目されるラジオ。

阪神淡路大震災の時も地元のFM局の活躍などが注目された。

エナメル線を巻きつけた竹をバルコニーに立てかけたりテレビのアンテナに巻き付けると感度がいいとか色々やった「ラジオ世代」にとっては今更なのかもしれないが、今の時代はだいぶ劣勢だと思う。

ある意味で「テレビを作る人」という放送作家にはラジオ愛好家だった人が多いし、「はがき職人」なんてのもラジオの文化から生まれた言葉だと思う。

昔で言えばはがき職人はらじおファンで、一昔前なら「懸賞マニア」かもしれない。

東日本大震災でもラジオが注目され、地元FM局の奮闘ぶりが紹介されている。

そうだよな、そういう時には貴重な情報源だよなと思いつつ、よく考えてみたらラジオを持っていないことに気がついた。

radikoの登場でパソコンで聴いたり、自動車に乗るときはラジオを聴いていることも多い。

しかしそんなものは災害時にはなんの便りにもならないケースが多く、携帯できるラジオを持っていないのは問題かもしれないと思った。

携帯と言えば最近では携帯でもラジオを聴けるようになったようだが、詳細はよく知らない。

いずれにしてもそんなわけでラジオを買おうかと思ってちらりとネットで見てみたら、どれも在庫がない。

当たり前だけれど早い。

どの商品もあっという間に売り切れたわけか。

そして生産に支障があるケースもあるだろうから納品も追いついていないのだろう。

そしてもう一つ驚いたのは、最近のラジオというのはこんなに高いのかということ。

今時ちょっと立派なテレビでも数万円で買えるのに、どんなに高性能なのか知らないがラジオも数万円もするなんて。

何かとカルチャーショック。

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2011年4月 3日 (日)

想定外

040301首相が岩手入り。

現場に入って迅速な対応をと、3週間以上経ってから現地入り。

しかも安全安全と連呼し、風評被害を非難しているが福島はスルー。

今回の大惨事においては、公共機関であれ民間であれ、個人も団体も皆口をそろえて「想定外」「未曾有」と言う。

確かにそうかもしれない。

でもそれではいけない気がする。

少なくとも公共機関は。

もしくは公共機関の上の方であればあるほど。

想定されるものに対する準備というのは「平常業務」とも言え、危機管理業務ではないわけで、想定外や未曾有の事に対してどうするかがポイントなのだと思う。

例えば「防波堤」に関しても、岩手三陸が誇った世界最高クラスの防波堤でも破られたので「これは想定外の事だから」では済まされないわけで。

地方自治体ではそうかもしれない。

特に大都会であれば費用も人員も時間も限界値が近いだろう。

けれど国ならばそれは話しが違う。

この手の話題では「費用対効果」が常に言われるが、それは「物的危機管理」の事であって、それならば確かに来るか来ないか分らない規模の災害にどこまで準備するかという問題があるだろう。

しかしシステムであったり体制であったり、その手のものは「費用がかからない」とは言わないが極端に低いだろう。

○○の問題に対応するために任命とか情報収集のために本部を設置とか、これは「想定規模」にはあまり関係ない気がする。

例えば「数県に甚大な被害が及び、地方自治体の指揮系統が麻痺した場合の対策」などは費用対効果に全く影響しないのではないだろうか。

例えば燃料備蓄。

生産工場が被災して製油ができないとか能力が不足しているだとか運搬に難があるとか、そんな対策に費用がどれくらいかかるというのか。

例えばA地点が被災すればB地点、B地点が被災すればC地点の「民間」が即刻対応するような擦り合わせを事前に行っておけば、1週間2週間かからずとも災害発生直後に本部から指示を出せばすぐに対応できること。

費用対効果というのは主に「災害防止策」で問題となるべきで、発生後の対応という意味での対策には費用対効果はさほど影響しないと思える。

 

「想定外のことを想定するのが行政」というのは某元知事が口にした台詞だけれどまさにその通りだ。

確かに未曾有の惨事だと思うが、そこで「想定外」を連呼してもなんの言い訳にもならず単なる自己防衛にしか聞こえない。

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2011年4月 2日 (土)

報道は何をするべきか

040201東京に住むイラン人ジャーナリストがペルシャじゅうたんを被災地で配ったというニュース。

毛布のように掛けたり包まったりして暖をとる用になるものではなく、座布団として使えるようなものらしい。

これは考えるところが多いのではないかと思う。

報道は誤解しがちで気をつけなければいけないといつも自分にも言い聞かせているのだけれど、「誤報」があってはならないのはいうに及ばずだが、誤報でなかったとしても「報道されたから実際にあったことで、報道されていないからないこと」とは限らないということ。

ここでは「外国人ジャーナリストが配った」という報道だけれど、「日本人ジャーナリストは何もしていない」というわけではないので気をつけなければいけない。

それを踏まえた上で、日本のジャーナリズムは一体何をしたのかということ。

特に「大手」と呼ばれるようなところは。

例えば震災発生直後からヘリコプターなどを飛ばしあちこちで孤立している避難民がいることを流していた。

大手報道機関には「ヘリコプター」や高性能カメラという武器がある。

その威力は発揮されたのかという疑問、むしろ騒音で救助の妨害ばかり目立ったのではないかという疑問。

あるキー局のジャーナリストに言わせれば「関係各所がTVを見ているからそれでよい」ということだが、孤立している避難民にしてみれば「伝わったのだろうか」という不安感と信じるしかないという希望を持って待つしかない。

そこで「必ず伝えますから」と一言添えるだけでどんなに気の休まることだろうか。

また、避難所を訪れて着の身着のまま横たわる人たちに「大丈夫ですか?」と尋ねる報道側はヘルメットをかぶり腕には高級時計という図。

しかも各社が入り乱れて出たり入ったりの繰り返し。

「報道こそ使命」ともっともなことを言うが、それならば(結果的に悪評となった)ACのCMを繰返すよりも避難者リストでもひたすら流したらよいものを。

「スポンサーが」というならば、試しにリストを流したいがスポンサーになってもらえないかと言ってみればいい。

何もドラマや映画など放映権が絡んだ高価な放送をしているのではなくスタジオから情報を流すだけの安価な放送にスポンサーがつかないわけがないと思う。

むしろ「社会貢献」として企業価値やイメージはずっと上がるだろうから。

国内と国外の報道機関を比べて、どちらが真実かとか迅速かとかいう問題ではなく、根本的に体質というか理念の違いを感じざる得ない。

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2011年4月 1日 (金)

リーリー・シンシン・ビーニー・シエンニュ

040101中国からやってきた2頭のパンダは今般の大惨事でしばらく公開が延期されていた。

そしてとうとう今日初お目見え。

上野動物園に限らず閉園をしていた東京の各動物園なども今日から再開。

パンダ登場の上野動物園では被災者の入園料を無料にするなどの対応も。

このパンダ、オスが「力力(リーリー)」でメスが「真真(しんしん)」と名づけられた。

この2頭、中国名は「比力(ビーニー)」と「仙女(シエンニュ)」だと言う。

日本名は上野動物園で募集して決めたそうだけれど、これに関して中国側となんらかのルールはあるものなのだろうか。

なぜわざわざ日本でも名づけたのか。

日本に来たから、愛着が湧くから、当然色々な理由が考えられるけれどそれならばなぜもっと日本ぽい名前にしなかったのだろうか。

カンカン・ランランから始まり、ずっと「繰り返し」名みたいなのを続け、94年のエイメイから以降十数頭は傾向が変わったが、ここにきてまたリーリーとシンシン。

もはやそんな「リズム」の名前に慣れてしまったのでいまさら「小太郎」とか「武蔵」とかするのも変だろうけれど、中国語が分らない自分からすればリーリーでもビーニーでもあまり変わらない気がする。

もしかしたら「なぜこういうネーミングなのか」という目からウロコな話しがあるのかもしれないが、詳しくない者としてはなんとなくいつも不思議に思う。

 

しかしいずれにしても、くしくもこの時に登場したパンダ達の意味は大きいのかもしれないと思った。

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