日本という国は、天災でも事件でも、何かあるたびに「心」だとか「愛」だとか言う言葉を乱用し、そしてそれがまた労働状況へと展開してゆき、さらには休みが増えるという悪循環を繰り返してきたように思う。
「モーレツ」という時代からいまや「働かない日本人」と評価が様変わりしているのは周知の通りで、特に年末年始、1月から半年近いカレンダーを眺めているといつも恐ろしさと同時に悲しさを感じる。
しかし、その「モーレツ」も怪しいものだと思う今日この頃なのだけれど。
年末から三が日にかけての連休、そしてそれがやっと明けたと思ったら成人の日。
以降GWまで毎月祝日が入ってくる。
しかもその時でも世界経済は動いているという事実。
日本の金融市場がお休みのこの日に、ユーロ円では海外市場で11年ぶりの円高に突入した。
しかし日本はなす術も無く…というよりただ見ている。
例えばアメリカでは証券市場がお休みでも為替は動いていたりと言ったことが普通に行われているが、日本では「国を挙げての」休日。
他国軍が攻め入ってきても「祝日」を理由に黙ってみているのではないかとさえ思えてくる。
さすがに国防や治安に関しては動いているが、事実経済的には攻められているわけで。
日本は所詮、どこまで行っても「時間給」を脱せられていないわけで、それが全て諸悪の根源だと思う。
それがアルバイトや派遣であっても、一部上場企業社員や政治家であっても単なる時間的拘束で支払われている給料である限り、休み休みと連呼して無防備な体制に陥り、しかし労働者側はいつも疲弊しているということに。
どれだけ休もうと勝手だし、どれだけ働こうとも勝手。
しかし、「休みだから」とか「こんなに働いているのに」という言い訳にだけはなってほしくないもの。
体制と必要な成果さえ伴えばどれだけ休もうと働こうと自由。
早くそんな社会になってもらいたいものだ。
…するとまた成果主義が人間社会の疲弊をもたらすという理論が台頭してくるのだろうが。
ぬくぬく社会でも結構。
しかし成果が伴わない社会にどんな末路が待っているのか認識して欲しいものだ。
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